ご案内

足尾銅山観光(通洞坑:国指定史跡)無休 9:00~17:00

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ラックレール式トロッコに乗って通洞坑内へGO!

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運転手さんのガイドがあります!

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折り返しのトロッコはステーションでお待ちくださいね!

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江戸時代へタイムトラベル・・・

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明治時代・・・

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大正時代・・・

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喫飯所・・・きっぱんじょ

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銅山のシステムが学べます・・・

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黄銅鉱・・・

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紫水晶・・・

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緑青・・・ロクショウ・・・毒ではありません!

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アノード板・・・

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銅インゴット・・・

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選鉱女・・・

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1トン鉱車・・・

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鋳銭座・・・

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https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%8A%85%E5%B1%B1+%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3

わたらせ渓谷鐵道通洞駅

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江戸時代、足尾の銅は渡良瀬川沿いに馬を使って下野国と上野国の境の急峻で危険な大名峠、小名峠を通ってあかがね街道を開設し、利根川畔から江戸の蔵前までを舟便で運んでいました。明治期、古河市兵衛の所有になると日光側の細尾峠を索道で銅と物資を運び、清滝の精銅所で精錬し馬車鉄道~日光軌道を使って東京へ鉄道輸送していました。大正元年ついに古河鉄道として足尾~桐生間を貨物輸送し両毛線を経由して東京へと再びあかがね街道側に輸送経路を変えました。さらに昭和になると、車社会が加速化し再びいろは坂よりキツイカーブの細尾峠を越えて日光路を行くダンプ輸送になりました。

通洞とは、鉱山の主要坑道でそこを通過しないとどこの坑道へも行けない中心的坑道です。駅名や地名などに通洞と名づけている場所は足尾以外にありません。足尾銅山観光になっている通洞坑は足尾銅山の中心であり、足尾町の経済の元であったのです。

山小屋風の造りで、標高は東京スカイツリー634の天辺に立っていると感じてくださいね。降り立ったら是非階段上で記念写真を撮りましょう!

わたらせ渓谷鐵道足尾駅

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江戸時代、足尾の銅は渡良瀬川沿いに馬を使って下野国と上野国の境の急峻で危険な大名峠、小名峠を通ってあかがね街道を開設し、利根川畔から江戸の蔵前までを舟便で運んでいました。明治期、古河市兵衛の所有になると日光側の細尾峠を索道で銅と物資を運び、清滝の精銅所で精錬し馬車鉄道~日光軌道を使って東京へ鉄道輸送していました。大正元年ついに古河鉄道として足尾~桐生間を貨物輸送し両毛線を経由して東京へと再びあかがね街道側に輸送経路を変えました。さらに昭和になると、車社会が加速化し再びいろは坂よりキツイカーブの細尾峠を越えて日光路を行くダンプ輸送になりました。

足尾駅は構内が広く感じると思いますが、かつては山側に駅関係の官舎があり、古河の硫酸タンクが2基あり本山製錬所の硫酸工場からの中継地点でした。貨物舎は多くの荷下ろしの場であり、丸通運送事務所が現存しています。

蓮慶寺 浄土真宗大谷派

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門前左手奥の石の大鳥居は、近世に銅山の隆盛を願って祀った簀子橋山神社のもので、護岸工事の際1986(昭和61)年に掘り起こされ現在地に上げられました。推測するに明治35年の足尾台風の際に倒壊し埋れてしまったと思われます。一部は岩の如く現れていたそうです。これは、間藤村の藤右衛門はじめ14ヵ村で奉納したものです。

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右手奥にある五輪塔は、最後の山先で吉田太郎衛門春安のものです。山先は近世鉱山開発に功績のあった鉱山師(ヤマシ)に贈られる役職の一つでした。足尾銅山の場合、山崎治兵衛、近藤五郎衛門、高坂清右衛門、そして吉田太郎衛門があげられます。吉田氏は因州の出身で幕府が鳥取藩に命じ足尾に派遣した鉱山師で、多数の鉱山師を束ね銅山開発に当たったとされます。吉田氏没後は山先制度は廃止されました。

 

 

 

 

 

 

 

宝増寺 日光山輪王寺

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明治21年4月30日過労のため倒れた古河市兵衛翁の優秀な甥木村長兵衛の墓

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足尾駅と通洞駅を結ぶ往年のトロッコ道(通称トロ道)沿いに明治元年に僧・茂海が本堂を建立して以後大正10年に改修して現在に至っている。龍蔵寺と同じ天台宗で、786年3月伝道大師が渡良瀬に寺院を作ったとされます。幸い火災にあっていないため、伝道大師筆の金泥の妙法蓮華経10巻の寺宝が残っています。また、勝道上人作の波之利大黒天の木彫りが祀られています。さらに、田元の齋藤家から奉納された藤原秀郷の陣旗一旒が保存されています。斎藤家については、地元ガイドでお聞きください。本堂の屋根には足利家の紋があり、徳川家康から家光まで三代に渡って仕えた天海大和尚が足利家の出?と関係してるのでしょうか?検証中です。筆者齋藤家には足利公方成氏からの書状があります。

明治期の足尾銅山に大きな貢献をした古河市兵衛の甥の木村長兵衛(明治21年4月30日代4台鉱長)のお墓もあります。彼の葬儀の際は、盛大に行われ、葬列は本山から延々と続いたと伝えられています。※御朱印ございます

 

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